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離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた
離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた
Auteur: 月歌

《第一部》第一話 結婚記念日の離婚届

Auteur: 月歌
last update Date de publication: 2026-08-10 20:21:49

「妊娠八週です。おめでとうございます」

医師の言葉を聞いた瞬間、沙耶《さや》は診察台の上で息を止めた。

画面に映るのは、まだ人の姿とは呼べないほど小さな影だった。

「こちらが心拍です」

医師が示した場所から、規則正しい音が聞こえてくる。

その音が、自分の身体の中から生まれているのだと思うと、不思議だった。

沙耶は無意識に腹部へ手を添えた。

ここにいる。

怜司との子供が。

胸の奥から込み上げた喜びに、目頭が熱くなる。

けれど、その感情に身を任せるより早く、別の思いが浮かんだ。

怜司は、喜んでくれるだろうか。

黒崎怜司《くろさき・れいじ》は沙耶を愛していない。

そのことを、沙耶は三年前から知っていた。

夫婦として求められる夜はあった。

抱かれるときだけは、彼の熱も腕も確かに自分のものになる。それだけで、いつも少し期待してしまった。

いつか、この人の心もこちらを向くのではないか。

けれど夜が明ければ、怜司はいつもの怜司へ戻った。

冷静で、隙がなく、必要以上の言葉を口にしない夫。

身体の距離がなくなっても、心の距離だけは消えなかった。

それでも三年間、沙耶は諦めきれずにいた。

沙耶と怜司の結婚は、高瀬メディカルと黒崎グループの提携をより確かなものにするために決められた。

誰が見ても政略結婚だった。

けれど、沙耶にとっては違う。

結婚が決まるより前から、彼を愛していた。

だから、選ばれたときは嬉しかった。

理由が会社でもよかった。

最初は愛されなくても、同じ家で暮らし、同じ時間を重ねていけば、いつか。

そう思っていた。

だが怜司の心には、ずっと別の女性がいた。

五年前に彼の前から去った、一ノ瀬美玲。

沙耶がどれだけ近くにいても、その人の記憶だけは怜司の中から消えなかった。

それでも今日は、少しだけ夢を見てもいい気がした。

三度目の結婚記念日。

そして、二人の子供を授かった日。

今夜、伝えよう。

驚くだろうか。

いつもの無表情が、少しだけ崩れるだろうか。

もしかしたら――喜んでくれるかもしれない。

そんな期待を抱く自分が、ひどく幼く思えた。

それでも沙耶は、超音波写真と母子手帳を受け取るための案内を、折れないよう大切にバッグへしまった。

夕方、黒崎邸へ戻ると、自ら食卓を整えた。

怜司の好物は、三年の間にだいたい覚えた。

味の濃すぎるものは好まないこと。

魚なら白身を選ぶこと。

仕事で疲れている日は、重い料理より温かいスープをよく口にすること。

ワインも彼の好みに合わせた。

自分のグラスには、色の似た炭酸水を注ぐつもりだった。

気づいてくれるだろうか。

酒を飲まない理由を尋ねてくれるだろうか。

そんな小さな仕掛けまで考えている自分が可笑しくて、沙耶は一度だけ笑った。

怜司が帰宅したのは、料理が冷め始めた頃だった。

「お帰りなさい」

玄関へ迎えに出る。

怜司は無言で上着を脱いだ。

右は漆黒。

左は淡い灰青色。

生まれつき色の違う瞳が沙耶へ向けられたが、すぐに逸れた。

「食事の用意ができています。今日は――」

「話がある」

声を遮られた。

いつもより硬い。

沙耶の胸の奥に、冷たいものが落ちた。

それでも何も言わず、怜司を食堂へ案内する。

用意した料理を前にしても、彼は箸を取らなかった。

向かいへ座ると、白い封筒から一枚の紙を取り出した。

食卓の上を滑ったそれが、沙耶の前で止まる。

文字は読めているのに、意味が頭へ入ってこなかった。

離婚届。

その文字より先に、怜司の署名が目に入った。

もう、書いてある。

沙耶が今日一日、どうやって妊娠を伝えようかと考えている間に、怜司はこの紙へ自分の名前を書いていた。

数時間前に聞いた小さな心拍音が、耳の奥で蘇った。

命が始まったと知らされた日に。

夫婦の終わりを告げられている。

「どういう……意味ですか」

尋ねる必要などなかった。

それでも声が出た。

怜司は目を逸らさなかった。

「美玲が帰国した」

その名前だけで、十分だった。

五年前、怜司を残して別の男と国外へ去った女性。

一ノ瀬美玲《いちのせ・みれい》。

三年間妻だった沙耶よりも長く、怜司の心の中に居続けた人。

その女性が戻った。

ただ、それだけでこの結婚は終わるのだ。

「彼女と、やり直すのですか」

自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。

「そのつもりだ」

迷いのない答えだった。

沙耶は膝の上で手を握った。

バッグの中には、怜司に見せるつもりだった超音波写真がある。

今、言えばいい。

あなたの子供がいます、と。

その一言で、きっと何かは変わる。

怜司は責任から逃げる男ではない。

少なくとも、立ち止まりはするだろう。

その想像に、心が一瞬だけ縋った。

けれど。

それで、どうするのだろう。

子供がいるから残る夫を、毎日隣で見続けるのか。

心では別の女性を求めている人を、父親という役目だけでここへ縛りつけるのか。

「両社の提携は、離婚後も継続する。高瀬社に不利益が出ないよう手配する」

怜司の言葉に、沙耶はゆっくり顔を上げた。

離婚を告げた直後に、彼が口にしたのは会社のことだった。

高瀬と黒崎。

契約。

利益。

責任。

三年間、同じ家で暮らしてきた妻に対して、まず心配するのはそこなのか。

自分はそんなふうに見えていたのだろうか。

会社との関係さえ守られれば、納得する女だと。

離婚を告げられたこととは別の痛みが、胸の奥に広がった。

沙耶はバッグへ伸ばしかけていた手を、静かに膝へ戻した。

「分かりました」

怜司の眉が動く。

「沙耶?」

「離婚に応じます」

今度は自分でも驚くほど、はっきり言えた。

怜司の表情がわずかに揺れた。

すぐ承諾されるとは思っていなかったのかもしれない。

その反応を見て、ほんの少しだけ胸が疼いた。

引き止めてほしかったわけではない。

そう言い聞かせる。

「ただ、今夜は署名できません。少し考える時間をください」

「ああ」

怜司は短く答えた。

そして離婚届を食卓へ残したまま立ち上がる。

「今夜は書斎で休む」

夫婦の寝室には戻らない。

その意味くらい、説明されなくても分かった。

沙耶は引き止めなかった。

廊下を進む足音が遠ざかり、やがて書斎の扉が閉まった。

広い食堂に、一人きりになる。

目の前には、手をつけられなかった料理。

怜司のために選んだワイン。

結婚記念日のために整えた食卓。

ほんの一時間前まで、ここで妊娠を伝える自分を想像していた。

沙耶はしばらく動けなかった。

やがてバッグを開き、超音波写真を取り出した。

離婚届の隣へ置く。

一枚は、夫婦の終わりを告げる紙。

もう一枚は、二人の間に生まれた命の証。

あまりにも残酷な並びだった。

沙耶は震える指で、小さな影をなぞる。

今から書斎へ行けばいい。

この写真を怜司へ見せればいい。

「あなたの子です」と言えばいい。

きっと彼は、無視できない。

けれど、それは愛ではない。

沙耶は目を閉じた。

「ごめんね」

声が震えた。

子供を使って、愛されない結婚へ怜司を縛りつけたくない。

そして、この子にもいつか、自分が誰かを引き止めるための理由だったなどと思わせたくない。

沙耶は腹部へ両手を添えた。

そこにはまだ何も感じない。

けれど確かに、あの小さな鼓動がある。

「あなたのことは……まだ言えない」

今夜、怜司へ渡すはずだった言葉を、沙耶は自分の胸の奥へしまった。

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  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第二十話 届いた証明

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  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十八話 消えない記録

    翌日、高瀬メディカルの検査室から届いた資料が、応接室の机いっぱいに広げられた。沙耶の向かいには、佐伯と相川が座っている。宗一郎は朝から取引先と大学病院への説明に回っていた。本来なら、自分も会社へ行きたかった。けれど医師からは、まだ外出を控えるよう言われている。皆が高瀬を守るために動いているのに、自分だけが家で待っている。そのことが、沙耶にはもどかしかった。「検査機器に残っていた元データは、すべて保全できました」佐伯が厚いファイルを開いた。「社内サーバーの記録も複製して、別の場所へ保存しています。正式記録そのものに、削除や書き換えの痕跡はありません」「……よかった」思わず声が漏れた。まだ安心するには早い。それでも、高瀬が不正をしていないと証明できる記録が残っていた。それだけで、張りつめていた胸がわずかに緩んだ。沙耶は、黒崎側から示された検査表と、高瀬に残る正式な記録を並べた。書式はよく似ている。機体番号も、担当者の名前も一致していた。けれど、試験日時と測定結果が違う。「この時間に、耐久試験は行われていないのですね」「はい」佐伯は黒崎側の資料に記された時刻を指した。「こちらでは、午後二時十二分から試験を開始したことになっています」続いて、高瀬側の記録へ指を移す。「ですが、その時間は検査機器の定期点検中でした」「点検中なら、試験には使えない?」「電源が入っていても、測定はできません。外部の保守会社が精度確認をしていました」つまり、その時間に正式な耐久試験を行うことはできない。沙耶は偽られた検査表を見つめた。怜司も、これを見たのだろう。一見すれば、本物にしか見えない。人の命に関わる製品なのだから、安全性に疑いがあれば止める。その判断そのものは理解できた。理解できるからこそ、胸が痛む。なぜ、一度でも高瀬へ確かめてくれなかったのだろう。なぜ、自分たちの説明を聞く前に停止を承認したのだろう。「点検した記録は、外部にも残っていますか」「保守会社のサーバーにあります」沙耶は顔を上げた。「証明書を出してもらえますか」「すでに依頼しています。ただ、正式な書類になると数日はかかるそうです」数日。今の高瀬には、その数日さえ長い。検査不正の疑いが広がれば、大学病院だけでは済まない。ほかの医療機関から説明を

  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十七話 偽られた検査記録

    翌朝、相川が高瀬メディカル本社から持ち帰った封筒には、黒崎グループ品質保証本部の名が記されていた。沙耶は自室のソファに腰を下ろしたまま、宗一郎と佐伯が見守る前で封を切った。書面の件名を見た瞬間、指が止まる。共同開発品における検査記録改ざんの疑義について。「……改ざん?」これまで黒崎側から示されていたのは、高瀬が提出した検証資料に確認を要する点があり、安全性が確認できるまで部品供給を停止するという説明だけだった。検査記録そのものが改ざんされた可能性がある。そこまで具体的な疑いを突きつけられたのは、初めてだった。沙耶は続きを追う。試作機の耐久試験結果に不自然な数値があること。一部工程について、実施を確認できないにもかかわらず完了扱いとなっていること。そのため安全性の確認が取れるまで、関連部品の供給および追加研究費の支出を継続して停止すること。そして末尾の決裁欄には、黒崎怜司の名があった。「怜司さんが、承認したのですね」宗一郎の表情が険しくなる。「少なくとも、正式な決裁を経た措置なのは間違いあるまい」沙耶はしばらく、その名を見つめた。人命に関わる疑いがあるなら、確認が取れるまで止める。その判断自体は理解できる。理解できるからこそ、胸が痛んだ。怜司は、この資料を見た。そして高瀬を止めることを選んだ。「問題とされている記録を見せてください」佐伯が別紙を差し出した。沙耶は一枚ずつ目を通す。耐久試験の数値。実施日時。担当者名。承認欄。見慣れた高瀬の書式だった。社名を隠して見せられれば、社内文書だと疑わなかったかもしれない。だが佐伯は、数秒見ただけで眉を寄せた。「これは違います」「何がですか」「まず日付です。この試作機の耐久試験をしたのは、こ

  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十六話 疑いの中の面影

    高瀬メディカルへの部品供給を停止してから、数日が過ぎていた。黒崎グループ本社の執務室で、怜司は机の上に置かれた報告書をもう一度開いた。高瀬が作成したとされる検証記録。耐久試験の数値に不自然な食い違いがあり、一部には実施された形跡の確認できない工程まで記載されている。人の身体を支える医療機器だ。疑いがある以上、確認が終わるまで開発を進めるわけにはいかない。そう判断したのは怜司自身だった。部品供給と追加研究費を一時的に止める。ただし、高瀬を不正企業と決めつけるな。事実確認を急げ。数日前、怜司はそう命じて決裁した。その判断そのものを、今も間違いだったとは思っていない。問題は、その先だった。「まだ調査結果が出ないのか」向かいに立つ雅人へ尋ねると、彼はわずかに表情を曇らせた。「確認に時間がかかっております」「何にだ」「元になった記録と、関連部署のデータ照合です。高瀬側にも確認を求めていますが――」怜司は顔を上げた。「高瀬から返答は?」一瞬。ほんのわずかだったが、雅人の言葉が途切れた。「担当役員のところには、いくつか問い合わせが来ているようです」「問い合わせ?」「停止理由の詳細を示してほしい、と」怜司の眉が寄った。「それだけか」「と申しますと?」「高瀬会長が、何も言ってこないのは不自然だ」高瀬宗一郎を、怜司は長く知っている。自社に不正の疑いをかけられ、部品も資金も止められて、それで担当者同士のやり取りだけで済ませる男ではない。まして、身に覚えがないのならなおさらだ。「直接、俺と話したいとは言っていないのか」雅人は慎重に答えた。「先方も社内確認を進めている段階かと。情報が錯綜したまま社長同士で話しても、かえって混乱を招きます」

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